いつきはいつも思いつき

だいたいは 口から出まかせ ひとりごと

コバエとインスタバエのはなし

突然だけど僕はゲームが好きだ。本当に突然で申し訳ない。ゲームが好きなんです。

もっと言うとゲーム実況も好きだ。高校のころは高校入学と同時に全ゲーム機を売り払い、ちょうどその頃モテたくて始めたギターに集中しようと思っていた。そしたらいつの間にやらニコニコ動画でゲーム実況動画ばっかり見ていた。ゲームをしている時間がゲーム実況動画を観る時間に変わっただけだった。



ちなみにギターはあまり上達せず、特にモテたりもしなかった。



そんなことはさておき、大学に入ってからはもっぱらスマホアプリ、いわゆるソーシャルゲームという形でいろいろなゲームをまたするようになった。

パズルなドラゴンやらモンスターのストライクやらラブのライブやらクラのクラやらいろいろ触ってきたが、今はクラロワとシャドウバースという2つのゲームをしている。

これらの具体的なゲーム性はまぁ話すと長くなるので割愛するが、それぞれゲーム性は違えど共通して友達とやることがすごく楽しかったのだと最近気づいた。

ここで言う友達とはなにも身の回りのリアルな友達に限らず、対戦ゲームの相手だったり、ゲーム内のチームメイトだったりもする。そして、似たような親近感をゲーム実況者に対しても抱いていたのだと気づいた。

つまりはゲーム実況者の実況プレイを見たりその動画についたコメントを見ながら、なんとなく一緒にワイワイプレイしているような感覚になっていたのだと気づいたわけだ。




思えば少年時代、友達の家でするスマブラは何時間でもやれたし、友達がプレイしてるゼルダを見てるだけでも楽しかった。

少し大人になった今となって、ゲームそれ自体のおもしろさはもちろん、友達とゲームという遊びを通して一緒に過ごすことも楽しさの一因だったのだなぁと気づく。



誤解を招きそうなので一応弁明しておくが、この話の趣旨は「ゲーム実況なんて見てないでリアルな友達と過ごそうぜ」とかそういうものではなく、純粋に「今はインターネットによってもそういう楽しさや趣味を共有できるからイイね」ということだ。


 


ところで最近はゲーム実況に限らず、SNSを通して簡単にたくさんの人と交流し、趣味を共有できる。特にインスタグラムではその傾向が顕著だと思う。

美味しいものを食べにいき、写真に撮りインスタグラムで共有する。旅行にいき、その様子を写真に撮りインスタグラムで共有する。投稿を見た方は、思い出話を聞いたような気になる。そしていいねされた方は、思い出話を聞いてもらったような気になる。そうすることによって、その思い出を共有したような気持ちになる。それは皮肉でも何でもなく、素敵なことだなぁと思う。

近頃はなにかを「した」思い出をインスタグラムで共有するのではなく、インスタグラムで共有したいがためになにかを「しに行く」という逆転現象が起きているらしい。

よく「インスタ映え」なんて言葉を聞くが、「インスタ映え」する景色や料理を撮りに行くことが目的になっていることも多くあるようだ。 

それを揶揄する人もいるが、要はそれによって楽しめれば何でもいいと思う。その順番は重要ではない。




ところでインスタバエといえば少し前にひとりぐらしの僕の家にコバエが湧いた。水回りの掃除をサボっていたからなのだが、あまりに鬱陶しかったので柄にもなくみっちり掃除してしまった。奮発して市販のコバエとりまで買ってきて。駆逐してやる、、という気概で臨んだからね

結局市販のコバエとりは一切活躍せず、主婦の知恵みたいな「めんつゆトラップ」の大活躍によりほとんどコバエは見なくなった。いまやコバエとりはただの置物である。
 
  


いきなりコバエなんて気味の悪い話をして一体何が言いたいかというと、インスタバエにとらわれてあれこれしているうちに、インスタがなくなったときにコバエとりのように置物になるものが増えることだけは怖いなぁと思うのだ。(長々と書いてきましたがようやくシメに入りますよ、奥さん。)



つまり、お金にしろ時間にしろ、その目的がインスタに投稿することにしろ純粋に趣味として楽しむことにしろ、消費したことを後悔することはないようにしたいということだ。

要は、ムリしてまでしないでもいいのだ、と思う。投稿することがないからしたくもないことをするのは違うかなと思う。

もちろん、それはそれとして、インスタに投稿することが楽しくてそれが目的であることに満足しているのならそれはそれでいいと思う。僕もいつ終わるかわからないソーシャルゲームに時間を取られまくってるがそれなりに満足している。満足していることにしているだけかもしれないが。

繰り返すが、楽しめているのなら動機はなんでもいい。楽しめばいい。それだけ。

そう、モテたくてはじめたギターも、モテないまま置物になってしまったけれど、それはそれとしてギターを習ってた時間は楽しかったから満足しているのだ。満足しているのだ。満足しているのだ。